昭和40年12月02日 夜の御理解
(途中から)
と言うても、おかげを受けなかればならぬ。おかげを受けると言う事も、まあそれを、おかげを取り次がせて頂く取次ぎの者と、それから取次ぎを願うおかげを受けなければならない人との、神様との三者が一つになっての、おかげの受けられる道というものを、その状態に、こちらがならなければならない。おかげを受けなければ出来ません。おかげを受けなければ、何事も成就成り立ちません。
特に椛目の御造営のことなんかは、もう銘々が本当に今までかってないと言った様なごひれいが銘々の家に家庭に頂かなければ、出来ることじゃない、ね。今日善導寺の青木さんがお礼参拝して見えましてから、丁度もう十一月の半ばももう後十日ぐらいしかない時分だったと思うんですけれど、今あの保険の外交をしておられる。それで十一月は本社から一千万の、まあ募集をしなければならんという、その通知を受けられた。ま一生懸命頑張っていわば、月のうち二十日も過ぎたんだけれども。
とてもとてもその半分所ではない、もう半分もおぼつかないと言う様な状態のときに、御願いに見えた。だからせめて向こうから言われとる半分なっとんせにゃ、ま自分の信用にもかかわることだし相すまんからと言うて、ま御願いに見えたんです。「そげな事言いよりなさるなら、ああた青木さん半分でんおかげ頂かんですよ」ち、私が申しました。ね。「一千万ち言うなら一千万御願いなさったらいいですよ」。
その代わり、御願いなさったら最後です、もう御願いをした時には、もう頂いたもんと思うてかかりなさいち私が言うた。もうその一言が非常に効いたんですねえ。御願いをしたときには、もう頂いたもんだと。先生がはいち言うてお届けして下さったんだから、もうおかげ頂いたもんのように思って、おかげ頂きなさい。それから十日間のあまりに、それはもう本当に不思議なくらいに、千万円出来たんです。
それで今日そのお礼参拝して見えたんです。主人があの方も大変ここでおかげを受けた、それこそ無い命を受けたほどのおかげを受けておるんですけれども、本人は信心が無い。あちらも久留米の何とか物産ですかね、ま繊維のよかとこしておる責任者のような、御用を頂いておられるんでしょう。それですから中々の手腕家でもあります。十二月はどうでも六千万挙げなきゃならんと。
今日お前がおかげ頂いて拝みよったらやっぱその、神様のおかげち言わにゃいかん、あのその思うと。だからお前今日御礼に行くなら俺のこつも一丁お願いして来いち言うてから、その主人が申しますとね。どうぞその事もひとつお願いして下さいちこう言うて。けれどもこれも私の人間的な、ま私の信心体験からなんですけれども、本人が例えばその気になったなら、本人が御願いにでも出てくる。
また本人がまたその気にならなければ駄目です。それから青木さんがここで、ま言うなら意気消沈して見えられてから、ほんにそうたい。御願いをした時には、もう、すでに頂いたものだと、というぐらいな気持ちの、信心と言う様なものがです、今の椛目の人達には非常に希薄になっとる。薄うなっとる。御願いしとるからまあ右になっても、左になっても、まそれをご都合おかげと頂くと言う様な程度しか頂けてない。
もう積極的な御願いと、ね。例えていうならば、大阪あたりの信心は、願いの信心といわれておる。ね。願いの玉水。お礼の甘木と。言うようなそのふうに言われるくらいに、大阪の人達は御願いということに対しては、もう大変な迫力を持っておる。先日聞かせて頂いた話ですけれど、これはまあ玉水ではないですけれど、阿倍野の教会の御信者さん。安藤さんのところに商用で見えられてその方が色々話しよったらあらあ、あんたん所も金光様ですか。
私も金光様ですという。ほんならもうおかげ頂きなさるですばい。その一丁うんと頑張らしてもろうてから、おかげ頂きなさいち言うて。けどそんなにそのご無理ばっかりは申し上げられんから。そんなことではおかげ頂かんですよち言うて、安藤さんに言われたんですね。もう兎に角ね阿倍野はね、朝の御祈念が千人、夜の御祈念が千人だそうです。いわゆるもう本当に桁違いも大桁違いですね。
神様のごひれいで大したことです。ね。ところがそのいうなら百軒の信者があるならですね、そこのもう従業員全部がお参りするそうです。いわばもう大きな工場やら、商店やらはもう団体のごつして参って来るそうです。だからそんなになるんだそうです。それもそのいわゆる、願いの信心というからだというわけなんですね。自分のほうもその人の話し、先月どうしても手形がもうどう考えても出来ん。
阿倍野の先生が一週間お日参りをしてくれと仰った。さそこでそのあちらの流儀らしいですねそれが。自分方の従業員が十何人のものにその主人が頼んだと。今度はどうでも一丁おかげ頂かんならん。瀬戸際だから一つ、皆も御祈念の加勢してくれといって家内子供、勿論もう飯炊きの女中さんまでみんな、総動員で朝御祈念に参るときにつめてお参りする。皆そうだそうですよあっちは。帰ってからもそうだそうです。ね。
もう主人が一人で参っとるきんち言ったようなもんじゃないです。そしてその願いのことを一週間願い続けるそうです。家族中のものがいわば従業員までがです。それはもう見事におかげ頂くそうですね。神様が一週間参ってくりゃおかげを下さるんだから、それを頂こうという意欲がです、そういう受けものを作っていくはずなんですね。晦日はなるほどお参りが多いということ。
一人がお参りに来るところに、家族中が十人おるなら十人が参ってくるもんですから、十家族ありゃ百人のお参りがあるというわけになるわけです。そしてそのもう一つはですね、従業員やら女中さん達までがですたい、金光様ちいやあ大したもんだなあ、やっぱりおかげ頂くなあと思うから、今度はその女中さんがお嫁さんに行くときに、必ずお社を頂いていくそうです。
従業員の番頭さんが、また店に行くときには必ずまた金光様へお参り、御願いをしてからするそうですから、やはりどんどんどんどんおかげが、おかげを生んでいく訳なんですねえ。ただ一人はお参りして御願いをするという、そのくらいな私はですねもう頂くものとしてその代わりに、こっちも弾みますというものが無からにゃいかんという事なんです。ね。一つの事ば願うとるとば。
例えば一人が御願いしとるとではなくてです、もう家族のものがですね従業員まで含めて、いわば朝の御祈念に参る一日のことを御願いするから、今度また、夜には、お礼参りをせにゃおられないわけです。そういうまあ素晴らしいごひれいの立っている教会、ね。願いってだからもうどうでもおかげ受けなければならんと。これは神様のご都合じゃろ、めぐりのお取り払いじゃろなるほどそれも、またおかげ。
それを頂けることも、すっきり頂けるなら有難い。けれども願うたが最後です頂くという気にならなければ駄目だと。先ほども先生方さっき話したことですけれども、椛目の御造営でもそう三千万が四千万になり、四千万が五千万になり、ね。五千五百万はあちっと、えらい沢山な金額になったもんだなあと言いよったら、最近六千万円ち言いよるですまた。ね。勿論お取次ぎ頂きます。けれどもお取次ぎを頂くならばです、もう委員長はじめ総代幹部が皆がです。
その気になってそれを頂くという腰で私はお参りなら、お参りの修行がなされなければ、おかげ頂けないと思うです。そしておかげ頂けなかったら、神様を恨む様な事はないにしても、やはり神様のご都合であったろうというような事でですね。そういうことが落ちになってはつまらんと。それこそ願うたことが頂けんなら、それこそ神様相済みませんとお詫びさせて頂いてからです。もうそれからでも頂こうとする、意欲が私は必要ではないだろうかとこう思うのです。
けれども例えば私今日、青木さんのお取次ぎを届けさせて頂いてからです、私の考えではだからほんなら、あなたお父さん弾まじゃこてとほんなら青木さんの、今月は六千万売り上げなければならんと言われる。けれどもここの神様はそうは仰らないですね。いわゆる承知しました御願いしましょう、お取次ぎさせて頂きましょうと。けれどもこれはお取次ぎ者はそれでなからにゃいかんですよ、やはり。
けれども願うほうの側は、今私が申しますような、その大阪の願いの玉水と言われるような、阿倍野のそうしたごひれいの立つその、所以と言うものがです、その辺にあるということを知らにゃいかんですよ。おかげはやっぱり頂かにゃいけません。ね。おかげを受けなければいけんです。ね。そして信心を分らせて頂こうと、こういう訳なんですね。椛目の信者もそこに、いろいろそこそこの流儀がありましてねえ。
けれども私は、本当にこれは皆に私が宣伝する事じゃないけれどもです、お互いがおかげを頂くならば、そこんところの願いを持たなければいけないと。椛目の場合なんかは、何時の場合でもお月次祭のようなあり方です。ね。いわゆるまあ大阪あたりが願いの信心なら、甘木が御礼の信心なら、椛目はもうどこまでもお詫びの信心ということに徹して行きよる。徹しさして下さろうとする働きを感じるのです。ね。
昨日お月次祭を頂かれたように、自分の心の中にある汚いものを、いわゆる豚と本気で取り組めというような、自分自身の心の中に鬼がおるんだと、その鬼をとっちめて行けというような。自分自身をギリギリ見極めて、そしてそこにお詫びのいわば信心というようなものを何時も頂く。問題はギリギリのです、本当におかげの受けられる、例えて言うならやあや言うて言わんでも御願いせんでもです。
以上のおかげを頂けれるような基礎を、椛目では何時も私は伝えているように思うのです。ね。地団太踏んで御願いするようないわばその御願い。それはやっぱり、しかしそういう風にそれこそ、さあ従業員女中さん達にまで、主人がですね、今度一丁どうでもおかげ頂かんならんけん御願いばして加勢してくれち、主人が頼まれる。ね。だからそれこそ、ご主人に対してでも努めて出らにゃいかん。
するとおかげを頂くもんですから、はあ金光様の信心ちゃ偉大なもんだなあ、おかげの頂けれる神様だというふうに思い込むから、おかげがおかげを生んでいく訳なんですね。皆さんが御願いをなさったらですよね。本当に御願いをなさったら。頂くという気にならにゃいかんです。もう御願いをしたら頂いたものとして、頂かにゃいかんです。お願いしとるけん神様の働きがありよるじゃろ、はあどげなふうになるじゃろかち、言うちからもう、それこそ半信半疑なんです。
願うたが最後、そん代わり願いということは検討しなければいかんと思う。この願いということがどう言う様な内容を持ったものか。また願いの成就のことになったら、それがどういうことに成らなければ神様に相済まんのか。そうでしょうが。そして練りに練って願わにゃいかん。そして願うたが最後もう頂くものとして、私はおかげ頂かにゃいかん。只今、御祈念前に、佐田さんがお届けされるんです。
いわゆる佐田屋物産の支店が今度出来る。その場所がこちらとこちらとある。こちらがいいけれども、その御神意を頂いてだから自分のほうで、こちらと決める方が良かじゃろか、それともくじ引きにでもした方が良いじゃろかと、その相手のほうの方なんかを。と言う様なお伺い。それにま色々お届けがありよりました。こっちが良か理由やら、こちらがまあ良くない理由やらを。
けども私は他の事をしよりましたから、私は何時の場合でもそうです。皆さんがお取次ぎなさっても詳しい事を幾ら仰っても、私は見よらん場合も有るけども私はようと聞きよらんです。本当にお取次ぎというものはそんなもんじゃないです。例えば病気をしとるとにですもう腹のこの辺が痛みますとか、頭のこの辺が疼きますとかと言うたところで、私が医者じゃなかもんじゃけん。問題はおかげ頂さえすりゃ良かっじゃからね。
だから結果のことだけしか私は、何時も言わんです。だから今佐田さんが言うたことです。あんたが今言うたこつはいっちょん聞こえじゃったち。けどもそんならそのことば、右か左かをお伺いすりゃ良かっじゃろと言うてから、私はお伺いさせてもらった。そしたらくじを引けと仰る。そして当たった方がです、ね。当たった方がおかげの頂けれる所だと思い込めとそれをそう頂けと。
自分が右が良いの左が良いのと思いよったけれども、神様がこちらをこうと定めて下さったなら、それが例えばそん時は悪かったっちゃ、将来が良くなるんだという風に、思いこまにゃいかん。神様、右も左も教えて下さらなかった。くじを引くことになったんなら、そのくじを引けと。そしてくじのほうに引き当てた方を、ああ御神意だこれがおかげだと思い込めと。必ずおかげ頂くです。
そういう思い込み。神様が下さったのであるから、間違いがないという思い込みがです。はあこっちのほうが良かち思いよったばってんが、こっちが当たったぐらいのことではおかげにならんです。神様がやはり信ずるものを信ずると。こう仰るのでございますからね。段々信心の稽古させて頂いて、願うたが最後その願いがね、例えば私の今日の場合その、青木さんのご主人の場合なんかは。
なにかおかげ頂いたけんで、もう何かおえばびびんちょこんのといったような感じに言ったんですけれども、神様は、びびんちょくに乗せなさるつもりじゃないかと思うですね。そういう風にして。やっぱりあのびびんちょくを乗せてでも、おかげ下さるのじゃないかと思うんです。神様はその事に対して何とも、私頂かなかったです。ね。ただそれをお取次ぎさせて頂いただけなんですけれどもです。ここん所を一つ皆さんがですね、例えていま大阪の例を取りましたように、御願いをさせて頂いたが最後です。
頂くほんなら神様が下さるのなら、本気で頂こうと言うてほんなら、どうぞ頂く受けものを家族中の者に頼んでからでも、一丁一週間だけ参ってくれとこう言う。そこに生き生きとしたおかげが現れる。そこにそんなら加勢した者も、なるほどと合点の行くような私は、おかげが頂けるとこう思うんですね。どうぞ願うたが最後、願うたらおかげになるもんだと、ね。もうおかげは頂いたもののような、私は一つの信心の気迫というかね。信念が必要だとこう思うですね。
どうぞ。